3月末日の閉店まで、カウントダウンが始まっています。
本日から4回に分けて、Niseko343の30年の歴史を振り返ってみたいと思います。
私は一昨年の11月に70歳(古希)を迎えましたので、自分のことを「爺」と称して、自身のことやニセコのことなどを振り返ってみたいと思います。曖昧な記憶に頼った独りよがりの回顧録になりそうですが、お時間のある方はしばしお付き合いください。また、急な企画で古い写真が見つけられないため、取り敢えずの仮写真になります。後日に加筆、新しい写真が見つかったらアップデートの予定です。
ではまず、爺の自己紹介から…
札幌出身で、中学から大学卒業までの10年間は競技スキー(アルペン)選手でした。10代は〝スキーが全て〟の青春時代でした。
スキーに夢中だったあまり大学卒業後の進路をイメージできず、ならばいっそと就職せずに半年間のダブルバイトでお金を貯めて、カナダ・ウィスラーへ「卒業スキー旅行」へ出かけました。学生時代に手稲でスキーパトロールの経験があったので、現地でのリフト代を浮かせるために、
「スキーパトロールの勉強をしに来た(半分は本当)」
パトロール隊長に簡単な英語でお願いしたところ、翌日から隊の居候?的な感じで置いてもらえることになりました。以来3カ月間、朝から夕方までスキー漬けの毎日を過ごしました。
それまで競技スキーが最高と思っていた自分ですが、ウィスラーではパウダースノーやフリースタイルを楽しむ人も多く、スキーの楽しみ方の多様性に気付かされました。この経験はスキー観の転機となりました。
帰国後、SAJの指導員を取得して基礎スキーも少し勉強しました。ただ、実際にやってみると何となく、自分のやりたいスキーは基礎ではないと感じるところがありました。
話は少し前後しますが、爺の妻(婆)との出会いは学生時代、地元北海道で開催された「道インカレ(北海道大学生選手権)」という大会でした。
婆は競技スキーを始めたのが大学からと遅く、決して上手くはありませんでした。でも、ガッツの入った?滑りをしていたのが好印象で、交際を申し込みました。そんな爺と婆の共通点は「北海道インカレの優勝経験者」であるということは、知る人ぞ知るなれ初めです。
婆は卒業後、プロスキーヤーのアシスタントとして2シーズン過ごしました。その後、SAJ準指導員、テクニカルも取得しましたが、後述するロッジロンドのスタッフと一緒にフリースタイルのモーグル競技にはまり、やがて全日本選手権で準優勝2回の結果を残すまでになりました。そうした戦績を経てナショナルチームのメンバーに選出されるに至り、30歳を過ぎて国内で開催されたワールドカップにも出場経験があります。
ただ、現在のモーグル競技とはまったく違うレベルなので、恥ずかしながらの紹介です。練習中に膝靭帯を損傷してモーグルは辞めました。
今は二人とも4月に数回(何時間)滑る程度の高齢スキーヤーです。これからも元気に滑ることができたらと思っています。