3月末日の閉店まで、カウントダウンが始まっています。
Niseko343、30年の歴史、2日目はロッジロンドと、スタッフたちについて記します。
Niseko343を語る上で「ロッジロンド」の存在は欠かせません。なぜなら、ニセコへ移住する、きっかけとなったのは、宿経営が全ての始まりだからです。
爺は学生時代、ニセコでのスキー合宿、大会経験などがありました。出身地の札幌からも近く、素晴らしいロケーション、雪質、その全てが気に入っており、いつかはニセコに住みたいと夢を持っていました。
そんな中、たまたま1年間営業しただけですぐに売却に出た宿物件「ロッジロンド」を購入したことが、ニセコ生活のスタートでした。
婆と、今は亡き婆の母の応援があって、体力にものを言わせての経営でした。経済成長やスキーブームの影響の恩恵を受けて、数パーセントの高金利時代でしたが、何とか借金を返済しながらも充実の毎日でした。
そんな4年目の冬、ある人物がロッジロンドに現れました。
滝川市出身の山崎修です。現在は「山崎石材工業株式会社」5代目社長を務める彼が、19歳の当時「居候したい」と面接にやってきたのです。忘れもしないのは、近所の方の葬儀から戻ったら、石材屋の跡取りである青年が爺を待っていたことです。
葬儀のあとに墓石屋? 不思議な繋がりを感じつつ、聞けば他のペンション面接で断られたが、スキーが大好きなので諦めきれず、2軒目となるロッジロンドに飛び込んだのだといいます。これが、山崎との最初の出会いです。
スキーが好き過ぎて夜は体力が持たず、会話中にもよく寝ていました。小柄ながら相撲好きで足腰の強い印象でした。
その後、ニセコでモーグルをしていた玉置憲昭さん、喜田一彦さんの影響を受けて、彼も大会へ出場するようになりました。春になると毎週末、滝川からニセコへ来て、パノラマラインの雪渓にエア台を作って跳んだり滑ったりしていました。
そんな努力が実り、ナショナルチームメンバーとなった山崎は、全日本も優勝してワールドカップで世界を転戦するようになりました。そして、モーグルがオリンピック正式種目となった1992年アルベールビルオリンピックにも出場。日本人初、そして日本人唯一の、同大会モーグル競技出場選手となりました。
ところで、こうした競技歴以上に彼が全国区になったのは、1998年の長野オリンピックでのこと。モーグル競技の解説を務めた生中継で、里谷多英選手の金メダルを決定づける会心の滑りに「やったー! 多英!!」の絶叫を放ち、一躍有名になりました。
彼の影響を受けてモーグル競技を志す選手がロッジロンドの居候(有給バイト)となり、ナショナルチームメンバーに何人か選出されました。
後にNiseko343の店長も務めた伊藤篤、現在は白馬でショップを経営している岩渕隆二、当時小学生ながらモーグル大会で鮮烈デビューした〝JP〟こと遠藤淳平(現在は函館で自身がプロデュースするスキーポールブランド「CURRISTIC(カリスティック)」と無水カレー店「Masala Curris(マサラカリス)」を経営)とも関わりがありました。